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太平洋戦争の影響で、宝塚音楽舞踊学校(現・宝塚音楽学校)へ入学しながら、宝塚歌劇の舞台に立てなかった少女たちがいた。
そんな「幻のタカラジェンヌ」が6日、当時の音楽学校旧校舎(現・市立宝塚文化創造館)で当時の思い出を語る。

集まるのは、1941年に入学した31期生の塩原詠子さん(82)と森川千代子さん(83)、翌42年入学で32期生の廣江歳子さん(83)と大野幸子さん(85)の4人。
44年3月、音楽学校は事実上の閉校となり、31期から33期の生徒らは現在の阪神競馬場にあった川西航空機宝塚製作所などに女子挺身(てい・しん)隊員として動員された。
華やかな舞台を夢見てダンスや歌の稽古に励んだ少女たちを待っていたのは、鉄粉の舞う工場での旋盤工の仕事だった。
「鉄粉で息苦しくて、油断したら指を切るし危ない仕事。ぜんそくになった人もいた」と塩原さんは振り返る。

宝塚大劇場はそのころ海軍が接収。
予科練生ら数千人が寝起きし、訓練をする場となっていた。
公演の場がなくなった歌劇団員たちは移動隊を結成。
国内のほか、満州へも慰問公演に出かけた。

一方、音楽学校の生徒らは相次ぐ空襲で家を失ったり、疎開したりして散り散りになったまま終戦となった。
32期生の廣江さんは戦後の混乱の中、宝塚歌劇自体がなくなったと思い込んでいた。
終戦から数カ月後、歌劇団事務所へ入団を願い入れたがなぜかかなわなかったという。
「まだ子どもで何が何だか分からなかった」と廣江さん。
在校中に決めた「宮登起子(みや・と・き・こ)」の芸名は一度も使うことがなかった。

31期生の塩原さんは、47年の秋に疎開先の九州からやっとのことで関西に戻り、歌劇団事務所へ向かった。
だが、すでに46年4月、大劇場公演は再開されており、同期生の明石照子ら初舞台生59人はラインダンスを舞っていた。
「悔しくて悔しくて。戦争さえなければと思ったし、もう宝塚なんて見るのもいやだと思った。けど、今は恨んでいない。姿勢がいいとほめられるのは宝塚で勉強したおかげですから」

その後、4人はバレエ団を主宰したり、OGの劇団に入ったり、モデルになったりとそれぞれの道を歩んだ。
6日は4人が「戦争に翻弄(ほん・ろう)された乙女たち~幻におわったラインダンス」と題して語り合う。
地元のコミュニティーFM局「エフエム宝塚」が塩原さんらのインタビューをもとに制作した30分のドキュメンタリー番組を放送し、当時の秘蔵写真を紹介する。

また、今回の催しを企画した演劇ライターの辻則彦さんと元娘役トップの初風諄さんの司会で思い出を語る。
初風さんの指導で「すみれの花咲く頃」など愛唱曲も歌う。
午後1時半開演。
入場料1500円(高校生以下1200円)。
問い合わせは宝塚文化を紹介する会(080・6209・2554)へ。



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