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月丘 夢路つきおか ゆめじ

本名 井上 明子
旧姓:旭爪(ひのつめ)
別名 ツメ
生年月日 1922年10月14日(88歳)
出生地 日本・広島県広島市袋町(現:中区袋町)
民族 日本人
職業 女優
配偶者 井上梅次
家族 娘:井上絵美 妹:月丘千秋、月丘洋子
主な作品
『新雪』、『長崎の鐘』、『ひろしま』、『晩春』、『夫婦百景』、『華麗なる一族』

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月丘 夢路は、日本の女優。宝塚時代の愛称:ツメ。
実妹は女優の月丘千秋、月丘洋子(松竹映画「花ある星座」や日活映画「美徳のよろめき」で共演。
夫は映画監督の井上梅次。一人娘は料理研究家の井上絵美。

来歴・人物
広島県広島市の中心部・袋町(現・中区袋町)に薬局の長女として生まれる。
県立広島高等女学校(現・広島県立広島皆実高等学校)に進むが、小夜福子の宝塚の舞台を見て感激し中退。
1937年、宝塚音楽学校に入学。
宝塚歌劇団26期生。同期生に浦島歌女、大路三千緒、乙羽信子、越路吹雪、東郷晴子、瑠璃豊美らがいる。
1939年、宝塚少女歌劇団声楽専科生として『宝塚花物語』で上記同期生達と共に初舞台を踏む(この初舞台の主演は小夜福子)。
以降、その類稀れな美貌で娘役トップスターとなり大活躍。
ちなみに、後の映画『満月城の歌合戦』でも小夜福子と共演。
そして、日活移籍第一作となった映画『あした来る人』でも小夜福子は月丘の母親役を務めている。

1940年、宝塚歌劇団在団中に宝塚映画『瞼の戦場』の主演で映画デビュー。1942年、大映映画『新雪』に大都映画にいた水島道太郎と共に主演し大ヒット(主題歌は灰田勝彦)し映画界でも大スターとなる。
1943年に宝塚歌劇団を退団。その後は大映に入社して、映画女優として活躍。
1947年、轟夕起子に誘われて、轟の夫のマキノ正博が所長をしていた松竹京都に移籍。
松竹でもトップ女優として活躍。四歳下の妹・月丘千秋も宝塚音楽学校を経て松竹入りしており、映画『地獄の顔』で妹・千秋と共演。
1951年7月、軽喜劇『東京のお嬢さん』のため渡米。二ヶ月で帰国する予定だったが声楽と舞踊を本格的に学ぶためニューヨークに残る。
当時はまだ海外渡航自由化の遥か前で、大変貴重なニューヨーク滞在となった。
ちなみに、月丘はこのニューヨーク滞在中に、1949年に日本人初のノーベル賞を受賞(ノーベル物理学賞)して、当時コロンビア大学の教授としてニューヨークに赴任していた湯川秀樹博士・湯川スミ夫妻に面会している。

1952年4月、渡米前まで同棲していた岩井庄蔵が独断で入籍し夢路の家を売却し別の女性と行方をくらまし、告訴騒動となる。
1953年1月2日、第3回NHK紅白歌合戦に初出場し、「新雪」を歌唱した(当時の紅白は正月に開催されていた)。
映像や音声は現存しないが、月丘の歌唱中の写真や紅組の歌手席に座っている写真が現存する。
1955年1月、製作を再開したばかりの日活に移籍。
出演料は映画1本に付き200万円で松竹時代の倍となり、当時の日活俳優達の中で最も高額の出演料だった。
1957年、井上梅次監督と結婚、井上とは絵美の出生などを挟み2010年2月に死別するまで連れ添った。
しかし、日活がアクション映画に路線変更すると速やかに後輩の石原裕次郎らにトップスターのバトンを渡し、1959年にフリーとなる。

以後は出産・育児や家庭のため出演数をセーブしながら脇に回り、映画やテレビドラマ、舞台で活躍。
夫・井上とともにジャニー喜多川と親交があり関連会社の代表を務め、舞台などでジャニーズ事務所所属のタレントとよく共演したが、1971年6月乗り合わせた車が交通事故に逢った際、フロントガラスの破片で顔に深刻な傷跡が残るほどの重傷を負ったことや、近年の自身・梅次の高齢化などもあり往年とちがい活動ペースをセーブしている。
2004年(平成16年)11月18日に開催された神戸100年映画祭のプレイベントにおいて、ロシアでフィルムが現存していたことが判明してロケ地である兵庫県神戸市の神戸文化ホールで映画「新雪」が上映された際に、ゲストとして出席して、トークショウで撮影当時のことを振り返った。
2011年(平成23年)2月18日に開催された日本アカデミー賞授賞式に会長特別賞を受賞した夫・井上梅次の代理として88歳の元気な姿で娘の井上絵美と共に出席。公の場に姿を現した。

エピソード
戦前の宝塚で轟夕起子らと並ぶ、"男性ファンの多大な支持を集めた美人娘役”のひとりとして語り継がれる。
夢路いとしの芸名の姓は月丘にちなんだと、いとし本人が談話していた。
「容姿端麗」が入学条件で美女揃いの宝塚歌劇団の中でも、他のタカラジェンヌ達から妬まれ深刻ないじめにあっていたほどの類稀な美貌の持ち主。
「ツメは自分の美貌を鼻にかけている」「男の先生に色仕掛けで接して、いい役を貰っている」などと身に覚えのない中傷をされ続けていた窮状を救ってくれ、「ツメ、あんたは三枚目(お笑いキャラ)で行き!」と助言してくれたのは同期の越路吹雪(コーちゃん)だったと月丘は語っている

統一教会と関係の密接な一和高麗人参茶のTVCMに月丘が出演し、夫・井上も統一教会系の国際勝共連合の後押しで制作された『暗号名 黒猫を追え!』で監督・脚本を担当するなど、統一教会との関わりの深い芸能人である。
霊感商法が問題にされた際には教会員・支持者の集まりで月丘を目撃したという情報が寄せられたことなどから、統一教会会員との疑惑が持ち上がったが、月丘自身は「私はローマ・カトリック信者で洗礼の記録も残っている」と否定している。
1953年、上記の日活移籍前でも、映画1本の出演料はすでに当時の日本映画界のトップクラスで、また、大手映画会社の松竹専属だったが、『原爆の子』を原作とする日教組プロ制作の映画『ひろしま』に故郷・広島への郷土愛からノーギャラで出演して教師役を熱演した。

月丘が第一線で活躍していた頃、美容整形において「目は月丘夢路の目で」という希望が多い時期があった。
宝塚歌劇団でコンビを組んだ事もあり、月丘の上級生にあたる男役トップスター・春日野八千代も彼女の類稀な美貌について語っている
日活所属時に当時の映画衣装担当者が森英恵であり、プライベートにおいても衣装製作(オートクチュール)を依頼している(宝塚歌劇団で月丘の下級生・新珠三千代も同様)。
月丘が出演した日活移籍後第1作目の映画『あした来る人』(1955年)では、原作者の井上靖から「(小説を)書いてるうちに、また月丘さんみたいな人が出てきちゃったの。」、と月丘のイメージで原作を書いたことを告白されたと語っている
仲代達矢の本格的映画デビューは、月丘が仲代の舞台『幽霊』を見て気に入り、月丘の相手役に指名した1956年、日活の『火の鳥』。
「準主役に抜擢という形で映画俳優への道を拓いてくれた月丘さんには一生、足を向けて寝られないです」と仲代は話している。
月丘と仲代はその後、1974年の『華麗なる一族 (映画)』(山崎豊子原作)でも母と息子役(万俵寧子と万俵鉄平)で共演している。

~月丘夢路 主な出演作品 其の弐へ~

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親友・マネージャー 岩谷時子との関係
越路の活躍の裏には、マネージャーとして最期まで支え、21世紀に入っても健在に活躍する岩谷時子の存在が大きかった。
岩谷が宝塚出版部に勤めていた頃に15歳の越路と知り合い、意気投合した。
越路が宝塚を辞めた際に岩谷も一緒に退社、共に上京し東宝に所属。
東宝の社員として籍を置いたまま越路のマネージャーも勤めた。(岩谷は1963年に東宝を退社)

また岩谷はマネージャー業の傍ら越路が歌うシャンソンなど外国曲の訳詞を担当し、越路の代表曲である「愛の讃歌」「ラストダンスは私に」「サン・トワ・マミー」などは岩谷の優れた訳詞によりヒットへ導かれた。
越路が亡くなるまで約30年間に渡りマネージャーを務めた岩谷だが、「越路のことが好きで支えていた」と語り、マネージャーとしての報酬は一切受け取っていなかったという。

宝塚時代の主な舞台
『宝塚花物語』*初舞台(月組)(1939年3月26日 - 4月25日、宝塚大劇場)
『國民の歌』(花組)(1943年9月26日 - 10月24日、宝塚大劇場)
『新かぐや姫』(花組)(1943年11月26日 - 12月28日、中劇場)
『棒しばり』『勝ちぬく誓』(花組)(1944年1月26日 - 2月24日、宝塚大劇場)
『メキシカーナ』『ミモザの花』(花組)(1946年6月1日 - 6月30日、宝塚大劇場)
『夏のをどり』(花組)(1946年8月6日 - 8月25日、宝塚大劇場)
『赤頭巾と狼』『センチメンタル・ヂャアニー』(花組)(1946年11月1日 - 11月29日、宝塚大劇場)
『踊る四季』『ファイン・ロマンス』(花組)(1947年1月1日 - 1月30日、宝塚大劇場)
『マノン・レスコオ』『春のおどり(世界の花)』(花組)(1947年4月1日 - 4月30日、宝塚大劇場)
『レインボーの歌』(花組)(1948年3月2日 - 3月30日、宝塚大劇場)
『田舎源氏』(花組)(1948年5月1日 - 5月29日、宝塚大劇場)
『再び君が胸に』(花組)(1948年7月1日 - 7月30日、宝塚大劇場)
『葛の葉』『アデュウ一九四八年』(花・星合同)(1948年12月1日 - 12月23日、宝塚大劇場)
『ハムレット』『ブギウギ巴里』(花組)(1949年1月26日 - 2月16日、宝塚大劇場)
『ワンダフル・ハリディ』『想ひ出の薔薇』(花組)(1949年5月11日 - 5月30日、宝塚大劇場)
『カルメン』『懐しのアリゾナ』(花組)(1949年7月16日 - 8月8日、宝塚大劇場)
『雨月物語』『プリズム・パレード』(花組)(1949年11月1日 - 11月29日、宝塚大劇場)
『モナミ』『春のおどり』(花組)(1950年4月1日 - 4月30日、宝塚大劇場)
『ブルウ・イン・ザ・ナイト』『スヰングハイ・スヰングロウ』(雪組)(1950年11月1日 - 11月29日、宝塚大劇場)
『春のおどり』(月組)(1951年5月1日 - 5月30日、宝塚大劇場)

代表曲
『ラストダンスは私に』 - もともとはザ・ドリフターズの「Save the Last Dance for Me」をカバーした曲。
『愛の讃歌』- この曲が収録されているレコード・CD等の売上枚数は200万枚以上を数える。
『挽歌』- 同名映画の主題歌。
『ある愛の詩』- 同名映画の主題歌。
『イカルスの星』
『サン・トワ・マミー』
『夢の中に君がいる』
『誰もいない海』
『夜霧のしのび逢い』
『ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョー』- この曲の歌唱により1965年度の第7回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。
『別離(わかれ)』
『ろくでなし』
『メランコリー』
『そして今は』
『一寸おたずねします』
『人生は過ぎゆく』
『家に帰るのがこわい』
『冬の蛍』
『ビギン・ザ・ビギン』
『哀れなジャン』
『じらさないで』

ディナーショー
日生劇場の春、秋のリサイタルと共に恒例だったのがディナーショーであった。ここではあくまで分かる限りの記録である。
新高輪プリンスホテル「飛天」 こけら落としディナーショー
帝国ホテル ディナーショー(1975年)
東京會舘 クリスマスディナーショー (1970 - 1978年)
パレスホテル ディナーショー(1978年)

テレビ出演
ほとんどテレビ出演しないことで有名だったが、年に数回は出演していた。ここでもあくまでも分かる限りの記録である。
ミュージックフェア(司会降板後) 
1965年7月7日放送
1966年12月12日放送
1967年7月10日放送
1967年12月25日放送
1972年4月4日放送           
1973年放送日時不明 
1974年1月8日放送       
1976年5月18日放送       
1980年4月29日放送
ビッグショー    
1976年          
1978年
徹子の部屋
1976年
1978年
夢であいましょう
1965年
大河ドラマ
赤穂浪士(1964年)

演じた俳優
舞台「越路吹雪物語」
主演池畑慎之介、共演は高畑淳子(岩谷役) 度々上演している
テレビドラマ
「愛の讃歌 越路吹雪の青春」1983年05月11.18日TBS 
主演 大地真央
「女優時代」1988年10月13日 読売テレビ 
河野美保子役 相楽晴子 乙羽信子を描いたドラマ。主演は斉藤由貴
『女の一代記』シリーズ
天海祐希(22歳 - 56歳)・新垣結衣(15歳当時)
1990年NHKドラマスペシャル「ごめんねコーちゃん」
幸和希

~越路吹雪 生涯 其の一へ~
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越路 吹雪こしじ ふぶき

本名 内藤 美保子
別名 コーちゃんコッシー
生年月日 1924年2月18日
没年月日 1980年11月7日(満56歳没)
出生地 日本東京府東京市麹町区
国籍 日本
民族 日本人
職業 歌手、女優
ジャンル 舞台
活動期間 1937年 - 1980年
活動内容 1937年:宝塚歌劇団入団
1951年:同劇団退団。その後、シャンソン歌手、舞台女優として活躍
1959年: 内藤法美と結婚
1965年:第7回日本レコード大賞歌唱賞受賞
1980年:胃癌のため死去
配偶者 内藤法美
家族 父・友孝(東京電燈のエンジニア)
母・益代
主な作品
舞台『再び君が胸に』
曲「ワン・レイニー・ナイト・イン・トーキョ」「ろくでなし」

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越路 吹雪は日本のシャンソン歌手舞台女優
本名、内藤 美保子(ないとう みほこ)。旧姓の河野(こうの)より愛称コーちゃん、コッシー。
東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区麹町)出身(山梨県出身の説もある。
所属レコード会社は日本コロムビア→東芝音楽工業(その後東芝EMIに改称、現・EMIミュージック・ジャパン)。

生涯
日本のシャンソンの女王。
戦中から戦後にかけて宝塚歌劇団の男役スターとして活躍。

1951年(昭和26年)の宝塚退団後は、女優として主にミュージカルで活躍したほか、歌手としてシャンソンや映画音楽を多くカヴァーし、特にシャンソンにおいては岩谷時子とともに数多くの曲を日本に紹介した。
1958年(昭和33年)テアトロン賞、1965年(昭和40年)第7回日本レコード大賞、1968年(昭和43年)文化庁芸術祭奨励賞など、多くの賞を受賞した。

宝塚OGの枠を超えて国民的人気を博したため、美空ひばりや吉永小百合と並んで女性アイドルの源流とみる向きもある(もっとも、越路・ひばり・吉永らの時代は芸能人に対して「アイドル」という言葉は使われず、「スター」と呼ぶのが普通であった)。
テレビの出演はほとんどしないことでも有名であったが、1964年(昭和39年)8月31日から始まった、フジテレビ系音楽番組『ミュージックフェア』の初代司会者でもある。

夫は作曲家の内藤法美。子宝には恵まれなかったが最後まで連れ添った。
プライベートでは家事の一切を越路が仕切り、特に掃除の腕前は素晴らしかったという。
喫煙者であったことでも知られる。
独身時代、三島由紀夫の恋人だったことがある。
三島の母は、自分の息子が越路吹雪と結婚するものと思い込んでいたようだ。
また、彼女のファンの1人が佐藤栄作元首相夫人の佐藤寛子で、後援会会長を引き受けていたのも著名なエピソードである。
日生劇場でのリサイタルは、ほとんどが春、秋の二回で約1ヶ月におよぶロングリサイタルであった。
舞台衣装はニナ・リッチとイヴ・サン=ローランのオートクチュールであり、ニナ・リッチの本店には、彼女の胴の木型がある。
バッグが大好きなことでも有名で、エルメスやルイ・ヴィトン、フェンディなどを愛用していた。
パリのエルメス本店で革の手袋を購入する際に「全色頂くわ!」と言った話は有名である。
また、パリの有名店では「マダム内藤」で通っていた。

面倒見も良く、多くの芸能人から慕われた。宝塚歌劇団在団時、同期生である月丘夢路がぬきんでた美貌を嫉妬されて他の生徒から深刻ないじめにあっていたが、見かねた越路に救われたことを月丘本人が後年になって明かしている。
肝の据わった女性と思われがちだが、さすがにリサイタルの直前は極度の緊張におそわれたという。
そのため、緊張を紛らせるために煙草を燻らせ、コーヒーを飲んで、リサイタルに臨んでいた。
ステージに出る際は緊張も極限に達し、岩谷時子から背中に指で「トラ」と書いて貰い、「あなたはトラ、何も怖いものは無い」と暗示をかけて貰ってからステージに向かっていた。

晩年の1980年(昭和55年)、胃潰瘍との診断を受け、7月8日に目黒の共済病院で、胃の5分の4を切除する大手術を受けた。術後の復帰を目指してリハビリに励んだが、その後も入退院を3回繰り返すものの、ついに助からなかった。
彼女の本当の病名は胃潰瘍ではなく胃癌であったが、最後まで本人には知らされなかった。
死の直前、病床の彼女は意識が朦朧とする中で「法美さんにコーヒーを」と、最期まで最愛の夫を気遣った。
彼女は両親を共に癌で亡くしていることから、自身も一番癌を怖れ、毎年の癌検診を欠かさなかったが、亡くなる前年だけが、多忙のため検査を先延ばしにしていたという皮肉な結果となった。
なお越路の没した8年後に、夫の内藤も肝臓癌のため亡くなっている。

此処で素晴しい歌声「愛の賛歌」の映像をどうぞ。感動します。


年表
1924年(大正13年)2月18日: 誕生。父・友孝は東京電燈のエンジニアだった。
1935年(昭和10年): 長野県飯山高等女学校(現長野県飯山南高等学校・長野県飯山高等学校)中退、宝塚音楽歌劇学校(現在の宝塚音楽学校)に合格。(同期生に月丘夢路、乙羽信子、東郷晴子、大路三千緒らがいる。)
1937年(昭和12年)4月: 宝塚歌劇団入団。
1939年(昭和14年)2月: 初舞台。
1951年(昭和26年)8月: 宝塚歌劇団を退団。東宝専属となる。
1952年(昭和27年)1月: 『NHK紅白歌合戦』に初出場。以後1969年までに15回出場。
1959年(昭和34年)11月: 内藤法美と結婚。
1965年(昭和40年)9月: 母・益代死去。12月、第7回日本レコード大賞歌唱賞受賞。
1966年(昭和41年)2月: 父・友孝死去。
1968年(昭和43年): 東宝から独立、フリーとなる。
1969年(昭和44年): 東京・日生劇場でロングリサイタルを挙行(劇団四季制作)。以後恒例化。1970年代当時、最もチケットの入手が困難なライブ・ステージのひとつともいわれた。
1980年(昭和55年)3月: 日生劇場でのリサイタルが53回目で生涯最後となる。6月:劇団民藝主宰の宇野重吉演出で米倉斉加年共演で「古風なメロディー」西武劇場。7月:胃の手術を受けるがその後入退院を繰り返す。11月7日午後3時2分: 胃癌のため死去。56歳没。戒名は乗法院越路妙華大姉。

~越路 吹雪 宝塚時代の主な舞台へ 其の弐~


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